高橋悠治 - "めぐる季節と散らし書き子どもの音楽 Circle of Seasons and Dispersed Calligraphy; Music for Children"
イメージを追うのではなく その時の感じ からだがかすかに動く感覚を覚えておく その感覚は 呼び起こされるたびに おなじイメージを作るとは限らない 決ったイメージを作ることを目標としないで 想像力をあそばせておく こうすれば 固定したイメージを再現する作業にしばられないで おなじ道を通っても 見えてくる景色はいつもちがうかもしれない
(中略)
一つの句を二つに切って 片端を逆に付けてみる この取合せ「行て帰るの心 発句也」(くろさうし) 平安古筆の返し書きは 紙の中ほどからはじめて 途中から前にもどって行外の余白に続ける
伝統の技法をまなんで ちがう領域に持ち出して使えば 曲解もあり 実験でもある 躓きは飛石となる
本作は
・ヘンリー・パーセル(1959-1695):組曲 第七番 ニ短調
・ルイ・クープラン(1626-1661):シャコンヌ・パヴァンヌ
・高橋悠治 散らし書き
・ ジョン・ケージ(1912-1992):四季(ピアノ版)
・バルトーク・ベーラ(1881-1945):10の易しい曲
・エリック・サティ(1886-1925):コ・クオが子どもの頃(母のしつけ)
・フェルッチョ・ブゾーニ(1866-1924):子どものためのソナティナ
・イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882-1971):五本指
・アントン・ヴェーベルン(1883-1945):子どもの曲
との構成となっている。
これらは、タイトルにおける「めぐる季節」「散らし書き」「子どもの音楽」の3つの主題を表現するために弾かれた楽曲ともいえる。
安直なイメージを伝えると、序盤は淡々としたバッハのピアノ楽曲のようであり、中盤の高橋やケージの楽曲は難解な現代音楽、後半の楽曲は子どもの為という制約の中でうまれた実験的なピアノ楽曲だ。
特に、新たに書かれた高橋の「散らし書き」は、2017年7月タワーレコード渋谷店で行われたインストアイベントでの話によると、古語の一本書きの文字を横に置き換え、その形をそのまま音符へと変換し、それにそって伴奏を添えたと、わざわざ恐ろしい制約のなかで面倒な翻訳的作業を行い、ovalやAutechreのような自動作成楽曲のような、制約のない楽曲を生み出した。
その意味とは何か。
冒頭で引用した高橋による文が一つのヒントとなる。自己を解体するために、あえて伝統的な材料を用いて、再度全く元の素材とは別な方法で再構成することにより、解体された元の文字の意味と鳴らされる音から、従来の価値観から逸脱し、音とはなにかを、別の形で知ることができる。
それは、制約のなかでの子どものための楽曲においても同義といえよう。リズムや和音理論などで縛るのでなく、弾く鍵盤そのものを狭めることで、自由という制約から解き放され、また新たな形の音を知ることができる。
吉村弘 - "Music For Nine Post Cards"
数年前、Mariahの『うたかたの日々』が、Palto Flatsよりアナログリイシューされ話題になったことが象徴的だが、近年これまで見落とされていた80年代の日本のニューウェーブ、ニューエイジが一部で再評価されているのはご存知の方が多いので詳細は省かせて頂く。今年も高田みどりの『鏡の向こう側』が同レーベルよりリイシューされ、話題となった。
また今年は、Visible Cloaksが象徴的なニューエイジアルバムを発売。彼等の参照する80年代の日本の環境音・建築学と並立するニューエイジサウンドに関しては、以下の記事が大変詳しいので是非一読して欲しい。
また上記記事でも紹介されているこのミックス作品も素晴らしい。フリーダウンロード。
Fairlights, Mallets and Bamboo Vol. 2 - Root Blog
Abletonの記事で紹介されている、吉村弘、芦川聡、尾島由郎といったアーティスト、また個人的に好いている鈴木良雄、日向敏文などの音源が、海外のコレクターと思われるアカウントがとある動画サイトへ音源の動画をあげているため、興味がある方は探し適当に聴いてみて欲しい。それぞれ音楽性はやや異なるものの、共通して言えることが、英米が引率する音楽カルチャーの価値観とは、ある種において正反対の姿勢をもっているという事だ。
静寂で空白のあり過ぎる電子音やピアノ、室内楽、ジャズやクラシックという範疇に入らない、素直にリリカルなメロディはウィンダムヒルレコードの作品も連想する。80年代当時の日本のセゾン文化とエリックサティと環境音の関係の公演も数年前に行われたようだが、バブル期とマッチョなアメリカ文化の裏にある独特の静な世界に、当時をリアルタイムで知ることができなかった筆者は最近とても惹かれる。
今回あえてタイトルとした吉村弘の『Music For Nine Post Cards』は、1982年のファースト・アルバム。必要最小限の音は、ブライアン・イーノの提唱したアンビエントの思想をまた別の解釈で行った、自然音そのものを電子音として切り取ったようにも聞こえる。現代においては、iPhoneの無料のGarageBandでもつくれるんじゃないかというくらい、シンプルな作品ではあるのだが、いざつくろうと試しても決してたどり着くことのできない、引きの美がこの作品にはある。一部の店舗でリイシューが行われたようである。今のうちに購入をしておくことで、2040年となりCDという骨董品を久し振りに聞こうと思った時に、劣化寸前の本作を聴くことができる。とても贅沢なことだ。
CDがうまれてから30数年が経ち、この記事で紹介をするCDのほとんどがCDが生まれて間もないころに発売された作品ばかりである。デジタルデータながら、CDの寿命寸前のところで、この時代の音源が一部で再評価されたのは喜ばしい。ヒーリング・フュージョン・ニューエイジなんて、偏見にさらされる一連のジャンルを、フラットな耳を持って、CDメディアが腐敗するぎりぎりのところで、新たに迎えることができて喜ばしい。
先日ちょうど、デイヴィッド・トゥープの自伝が発売され、合わせてWIREDでインタビュー記事も掲載された。上記の内容と連なる部分があるので、是非一読を。
ビードや歌詞やムーブメントにとらわれるがあまり、音の本質的な部分と、視聴による体験と記憶の関係を捉えぬまま、ただ音楽を消費すべきではない。まだ知らぬ世界へ、幼少期に通り過ぎてしまった音楽をもう一度思い起こし、その音を探して聴いてみる、記憶の旅をする良い契機となりますように。
牛尾憲輔 - "映画『聲の形』original soundtrack 2 inner silence"
聲の形の音楽は制作初期にたてたコンセプトから、バッハのインベンションを扱う事が導き出されました。
その道程で、映画全編にわたりインベンションを元に加工/合成した音響がなる、というのはどうだろうと試作した楽曲がありました。
その楽曲は映画全編を通してある程度の形になっていましたが、あまりにハードコアで難解な楽曲であったこともあり、
山田監督と違う選択をしたものが現状の本編のありかたです。
しかしコンセプトを非常に純度高く掘り上げることの出来た楽曲であり、また山田監督、鶴岡音響監督やスタッフ皆さんから強く推薦して頂いたこともあり、Blu-ray化にあたり本制作して作り上げることが出来ました。
勿論、初回/通常を問わず、全ての映画 『聲の形』 Blu-rayに含まれます。しかも5.1ch/24bit/48khz/LPCM。"inner silence"と名付けたこの楽曲/バージョンはBlu-ray版(容量的にDVDには入りませんでした…)のトップメニューから選択することでアニメ本編の音声としてご試聴頂く事ができます。
セリフはありません。効果音もありません。
すべて山田監督と作ったコンセプトを表出させるための楽曲になります。
難解ではありますが、本編が染み込んだ後に聞くととても素晴らしいものになりました。
agraphの楽曲は、徹底的に突き詰められて隙間がない。3作目である「the shader」において、それがより特化し、かつわかりやすいメロディアスなエレクトロニカからも逸脱をしてしまった。日常において、街中で歩きながら聴くには些かヘビーであり、歩くことに集中ができない。音だけで、視覚だけでなく、別の感覚をも音に引っ張られてしまう。
更にそれがより精鋭化した作品が、京都アニメーションによる映画『聲の形』に特典として付随した、「新規音声トラック “inner silence”」(及び、特典CD「映画『聲の形』 original soundtrack 2 inner silence」)である。恐らく、このBlu-rayを購入した9割以上の方は、このトラックでの全編視聴をすることはないだろうが、私がこのアニメ作品における不満を全て払拭した映像体験が、このinner silenceでの鑑賞だった。
本編は、聴覚障害がテーマとした人間関係のドラマが描かれるのだが、日本のアニメーション作品自体が、(『君の名は』などが顕著だが)ただでさえ実写よりも情報量が意識的に強調されたものであるアニメーションのなかに、カットの多さ、特徴のあるキャラクタービジュアルに、特徴のある声優演技・そしてセリフ数の多さ、説明の多さがある。更に、リアルな現実風景を模した背景美術の中でも感情を訴えさせられ、そこに効果音やBGMまで積み重ねた中で、ぎゅうぎゅうに情報圧縮されたものが、画面と音から視聴者に対して凄い勢いで通り抜けていく。その中で視聴者は、とりあえずわかる記号を手当たり次第にとって、鑑賞を終える。鑑賞のうちに、行間を読む暇もない。それはもうアニメ映画に限った話ではない。日常においても広告だらけの風景の中で、耳に音楽、片手にスマートフォン、みている画面も複数のSNSやゲームが並行して行われ、凄まじい量の情報が終始流れている中で、私たちは歩いてるつもりになっている。実際その中で、私たちは、何をみているというのだろうか。
近年の海外インディペンデンスアニメーション、「父を探して」や(日本配給ではあるものの)「レッドタートル」では、その情報数を意図的に減らし、非リアル的なアニメだけでなく、セリフを廃するような方法も取られた。『聲の形』でも、テーマが聴覚障害であるならば、声による情報をもっと抑えてもよかったのに、という個人的な不満点もあったのだが、音声そのものを排し、内面の音ともいえる、ドローン音源だけで音が構成された“inner silence”での鑑賞体験によって、よりアニメーションとしての情報量の多さを十分に享受する事ができる。
本作においては、「雲」が描かれていないという。空の雲自体が雄弁過ぎるゆえ、雲を排しただの青空・雨空・夜空とすること。それは、“inner silence”トラックとのコンセプトへも繋がる。殆ど止まることのない音の連なりの中で、本当に大切なタイミングで、『音』が変化する。低音の音響も素晴らしかった。本当は、映画館で体験したかった。極力、自宅での鑑賞においても、音響を整えた上で鑑賞に臨んでほしい。